COLUMN
垣見修平が都リーグと医療そして育成の現場で得たもの - #01
|後藤勝
写真:現在、FC東京U-18のトレーナーを務める垣見修平氏。
#01
かつて“都リーガー”として活躍した垣見修平が現在、FC東京U-18のトレーナーを務めていることはご存知だろうか。社会人フットボーラーとして一定の年月を過ごしたのちもサッカーに関わり続ける例として気になるところだが、その現在の仕事について触れる前に、少々、都リーグの思い出話をしておきたい。
社会人サッカーの活動は大学在学中に始まり、卒業後は体育会アスリート向けのスポーツリハビリからお年寄りの治療までを幅広く扱う病院に勤務しながらおこなっていた。当時、3人分しかなかった学生枠(※現在は撤廃)を使ってHBO東京で社会人リーグでのプレーを始めた垣見トレーナー(以下、垣見)は、理学療法を学んでいた大学を卒業後、東京23SCへと移籍。2010年の改組によって「東京23FC」と改称されたチームでも継続してプレーした。
2010シーズンと言えば原野大輝監督とオランダ帰りの林雅人ヘッドコーチのもとで東京23が躍進、初の都1部優勝を成し遂げた年。社会人リーグとしては珍しいほどに対戦相手を分析し、戦術を練り上げていた。だが、このレベルの高い環境ゆえ、垣見は苦心していた。
「体制が一気に変わって、練習を『しんよこフットボールパーク』で週に3~4回。ぼくはお茶の水で働いていたんですが、そこから毎回21時開始の練習をしに新横浜に行くのがまず大変で。それから渡邉敬人(2022シーズンに引退)、猪股聖哉(現在は東京ベイFC)、小山泰志(FC東京から2010シーズンに加入し、1年間のみ東京23に所属)といった1歳下の選手たちが入ってきて、ポジションを取られる側になってきたということもあり、仕事は忙しい、競争でも少し心が折れかけるという状況で、夏に1カ月ほど行けない時もあったんですよ。
『もう今年で最後だな』と思いながらプレーしていたら、夏以降にけが人が出たり自分のコンディションが上がってきたりして途中出場が数試合あった。駒沢補助でおこなわれた最終節のTFSC戦は本当、久しぶりにスタメンで出て、ガチガチに緊張してやっていた記憶があります」
大学を出る時にはプロサッカー選手として身を立てられるかどうかを模索、南米でトライアウトも受けた。ここでプロを断念し、帰国するともう一般の就職活動は終わっている時期だったが、国家試験を受験後、幸運にも前職の病院に就職することが出来た。垣見はここで理学療法士としての自身を確立しながら、ゆくゆくはJクラブで仕事をしたいと考えるようになる。そうして都リーグでプレーしながら病院に務めていたが、JFLをめざす東京23での活動との両立は厳しいと判断し、この2010シーズンかぎりで退団。